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清浄院(せいじょういん、しょうじょういん、正字:清淨院、天正10年(1582年) - 明暦2年9月17日(1656年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。加藤清正の継室。水野忠重の娘。名はかな。 == 生涯 == 天正10年(1582年)、三河国刈谷城主・水野忠重の娘として誕生。 その後、徳川家康の養女となり、慶長4年(1599年)、18歳で加藤清正と結婚し正室として大坂屋敷に入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを前に清正の待つ熊本へと脱出。同地で八十姫(瑤林院)を生む。 清正死後も熊本城にあって、化粧料1万石(加藤家侍帳)を与えられ、幼年の2代忠広を支えて重きをなす。忠広の室に江戸幕府将軍・徳川秀忠の養女・崇法院(蒲生秀行と家康三女振姫の娘)を熊本に迎え、清正の長女・あま姫(本浄院)を徳川譜代の重臣・阿部正次の嫡男・政澄の室に出し、夫の家康との生前の約束である八十姫(瑤林院)と徳川頼宣の結婚を履行させるなど、加藤家と徳川家の絆を結ぶことに尽くす。 加藤氏の改易後は、清正の京都の菩提寺である本圀寺門前に住み、清正の菩提を弔って余生を過ごす。明暦2年(1656年)に死去、享年75。本圀寺の清正廟〔本圀寺の寺伝によれば、文禄元年(1592年)、加藤清正は朝鮮出征の際、本圀寺に自身の肉歯・毛髪を石室に納め、生き墓「真生廟」を建立して出征したとされている。〕の隣に埋葬される。八十姫は深く悲しみ、両親墓に並べて自身の逆修墓(生前墓)を建て、墓前に池を掘り加藤家墓地として整備、両親の戒名を並べた父母位牌(和歌山報恩寺蔵)を作り、日夜供養したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清浄院 (加藤清正室)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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